top of page

川中島古戦場八幡社について

御祭神
誉田別尊(ほんだわけのみこと)
建御名方命(たけみなかたのみこと)

御由緒

​当社は平安時代中期(1087~1093)、信濃の国に流された村上顕清が、この地を訪れ武運長久の神「八幡大神」をお祀りされた事が始まりとされています。、この辺り一帯の広原を神の御名に因んで八幡原​(はちまんぱら)と名付けられました。

戦国時代の永禄4年(1561)9月10日の川中島の戦いでは、八幡大神を崇敬する武田信玄が当社に陣を構え、境内は上杉謙信との一騎討ちの地となりました。

昭和25年(1950)鞘堂内の旧本殿より現在の本殿に御霊を遷し、強運必勝・厄除・交通安全・安産等の御神徳のある神社として広く崇敬を集めております。

境 内​

一騎討ち像

武田信玄・上杉謙信一騎討ち像

この像は大河ドラマ「天と地と」で川中島の戦いが放映されることを機に昭和44年に建てられました。

川中島の戦いは約12年間の間に計五回​行われそのうち最も激しい合戦であったのが永禄4年5月10日の四度目であり又、武田信玄と上杉謙信の一騎討ちがあったのはこの時であったとされています。

​執念の石

執念の石

騎討ちの折、武田方の家来、原大隅(はらおおすみ)は信玄目掛けて斬りかかる謙信に対しとっさに信玄の脇にあった槍をとって謙信を一突きしようとしたが外れてしまい、謙信を取り逃した無念さのあまり傍らにあったこの石を手持ちの槍で突き通したといわれています。​

​三太刀七太刀之跡の石碑

三太刀七太刀の碑

川中島合戦の折、上杉謙信自ら武田信玄の本陣に攻め込み、太刀で宿敵信玄を三度斬りつけました。信玄は腰掛にかけたまま、手にした軍配でそれを受け止めたといわれています。後にその軍配を調べてみると​刀のあとが七か所あったといい俗にこの地を「三太刀七太刀」と呼ばれています。

首塚

首塚 甲越直線之地

内の西側、福島安正による「甲越直線之地」と刻んだ石碑が塚の上に建てられています。永禄4年9月10日の激戦後海津守将高坂弾正が、敵味方の区別なく、死骸や散乱した武具を集めて埋葬した跡として「首塚」といわれています。

​逆さ槐(えんじゅ)

逆さ槐

殿に向かって右前、今ある木は古木が朽ちて、その根から出た新木で二代目のものになります。武田信玄が本陣を、この地に築く際に防御の乱杭として打ち込んだ一本の槐の杭が、そのまま根が出て大木になったと伝えられています。

​お問い合わせ

bottom of page